

戦後の民主化政策
GHQは、日本経済の後進性を象徴する財閥・寄生地主制が軍国主義の温床になったとみて、それらの解体を経済民主化の中心課題とした。
1945年11月、まず三井・三菱・住友・安田など15財閥の資産の凍結・解体が命じられ、翌年には持ち株会社整理委員会が発足し、指定された持ち株会社・財閥家族の所有する株式などの譲渡をうけて、これを一般に売り出し、いわゆる株式の民主化を進めて言った。さらに1947年には、いわゆる独占禁止法によって持ち株会社やカルテル・トラストなどが禁止され、過度経済力集中排除法によって巨大独占企業の分割がおこなわれることになった。
1946年、政府は農地調整法改正による第一次農地改革案を自主的に決定したが、GHQからさらに徹底せよとの勧告をうけて、翌年から自作農創設特別措置法による第二次農地改革を開始し、1950年にほぼ完了した。不在地主の全貸付地、在村地主の貸付地のうち一定面積(都道府県平均1町歩、北海道では4町歩)をこえる分は、国家が強制的に買い上げて、小作人に優先的に安く売り渡した。その結果、全農地の半分近くを占めていた小作地が1割程度にまで減少し、大地主たちは従来の大きな経済力と社会的威信とをいっきょに失った。
労働政策も積極的に推進された。まず1945年12月には労働組合法が制定され、労働者の団結権・団体交渉権・ストライキ権が保障された。さらに翌年に労働関係調整法、1947年には労働基準法が制定され(以上が労働三法)、労働省が設置された。労働組合はつぎつぎと結成され、1946年には全国組織として、右派の日本労働組合総同盟(総同盟)、左派の全日本産業別労働組合会議(産別会議)が結成された。
教育制度の改革も、民主化の重要な柱の一つであった。
GHQは、1945年の10月には、軍国主義的な教員の追放(教職追放)と、教科書の不適当な記述の削除(「墨塗り」)を指示し、つづいて修身・日本歴史・地理の授業が一時禁止され、のちにはこれらにかわって社会科が設置された。
ついでアメリカ教育使節団の勧告により、1947年、教育の機会均等や男女共学の原則をうたった教育基本法が制定され、義務教育が6年から9年に延長された。
同時に制定された学校教育法により、4月から六・三・三・四の新学制が発足した。大学も大幅に増設されてより大衆化し、女子大学生も増加した。
また、1948年、都道府県・市町村に、公選による教育委員会がもうけられた。
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